少子化対策に乗じた財務省の策動
官高政低の実態
今年2月に出版された「安倍晋三 回顧録」(監修・北村滋氏=安倍内閣の元総理秘書官、内閣情報官、国家安全保障局長)の中に次のような記述がある。
「彼ら(財務省)は、税収の増減を気にしているだけで、実体経済を考えていません」
「財務省は常に霞ヶ関のチャンピオンだったわけです、ところが、安倍政権では経済産業省出身の今井政務秘書官が力を持っていた、財務省にとっては、不愉快だったと思います」
内閣支持率が落ちると、財務官僚は自分たちが主導する新政権の準備を始めるわけです。
目先の政権維持しか興味がない政治家は愚かだ、やはり国の財政を預かっている自分たちが一番偉い、という考え方なのでしょうね、国が滅びても、財政規律が保たれてさえいれば、満足なんです。
安倍政権が実体経済を顧みない財務省と闘っていたことを記した記述であるが、ここから読み取れるのは、実体経済のみならず、国会議員、更には政権、もっと言えば総理をも顧みない財務省官僚の姿である。
以下、筆者(2000年の総選挙で無所属の会から東京比例代表1位として出馬し落選、6万7千票)の人脈から得た財務キャリア官僚を巡る情報を記す。
世間一般では官僚が政策を作り、政治家、国会議員はそれを承認するだけ、永田町を操っているのは霞ヶ関の官僚であると思っている人が少なくないかも知れない。
確かに制作的知見を持ち合わせていない国会議員はいるし、そもそも法令がどのように構成されているのかすら知らない国会議員、つまりは審議対象の法案について理解する基礎的な知見が欠如している国会議員もいる。
一方で、官僚出身の国会議員も少なくないし、士業や研究者等の専門家から国会議員に転身した人もいる。また、元々は知見や素養に欠けていたとしても、一生懸命勉強して相当程度の知識を身につけて、専門家や官僚と対等以上に渡り合えるようになった国会議員もいる。
つまり、国会議員の政策的知見や素養は十人十色と言うことであり、多くの一般人が持っているであろう認識とは異なり、必ずしも官僚主導、平たく言えば、官僚の言いなりになってしまっているというわけでもない。
もっとも、霞ヶ関の側は大組織であり、国会議員側と比べて政策の企画立案に携わる人数が圧倒的に多い。
したがって、多勢に無勢とまでは言わないが、霞ヶ関の側が全体としての、政策の企画立案能力という点では優位に立ち、国会議員の側が劣位にならざるを得ない。
加えて、霞ヶ関での仕事やその進め方を一通り経験していないと、たとい特定の政策分野についての専門的知見を有していたとしても、政策の企画立案、つまりそれを政策にすることは容易ではない。
衆参両院は事務局及び法制局を持っており、国会議員の政策の企画立案の支援をしているが、端的に言って、その能力は霞ヶ関の中央省庁には及ばない。
政策担当秘書は、一応資格制の職ではあるが、公設第一や第二秘書から転じて就いた者が多く、霞ヶ関での経験がないどころか、政策の企画立案に携わった経験すらない者の方が多い。
よって、どうしても「官高政低」とでも言わざるをえないような状況になっている。
好対照なのが米国議会
好対照なのが米国議会である。議会側のスタッフが質量ともに充実しているのみならず、立法担当や法律顧問の役割を果たす秘書を含めて、例えば下院の場合は一議員当たり平均16人程度の秘書を擁しており、しかもそうした秘書の給与も全て国から支出されている。
ところが、こうした実態が「安倍晋三回顧録」にも記載されたような霞ヶ関側の考え方、思い上がりとも評したくなるような認識を生んでしまっているのではないかと思われる。
無論、財務省の場合と他の府省の場合では程度の差はあるが、例えば若手の国会議員、特に当選1回や2回の場合、霞ヶ関の官僚は彼ら彼女らを上手に取り込もうとする、手懐けようとする傾向が強い。
少々言い方は悪いが、若手議員、当選期数の浅い議員の経験や知識・知見の不足につけ込んで、それらを逆手に取って、ということである。
そうしたことは、国会議員に対して所管の政策分野について解説し、議員の質問に答えるレクチャーや、国会質疑の質問通告の機会等を通じて行われる。
手懐蹴る目的は、その府省やその政策に好意的な認識を持ってもらうとともに、国会で余計な質問をさせないといったことにある。
特に野党の場合はそうであり、党代表が最も気をかけ、注意を払っていることの一つが、党所属の若手議員が実に巧妙な手口で官僚に取り込まれるリスクである。
財政民主主義なんぞ存在せず
以上、政策の企画立案を巡る国会議員と霞ヶ関の官僚の関係性が、後者が前者をある種見下すような態度、認識を生んでいるということについて、簡単に解説したが、こうした実態はどのような問題を生んでいるのだろうか。
財政民主主義という言葉をよく聞く。
国の財政の権限は、選挙によって国民に選ばれた代表者による国会議員により構成される国会の議決に基づかなければならないということであり、憲法第八十三条以下に規定されている。
そもそも、国会は国権の最高機関であり、かつ日本の唯一の立法府である(憲法第四十一条)。こうした制度的な観点からすれば、「官高政低」なることはあってはならない話である。
特に国の予算、財政支出については、財務省が実質的に権限をその掌中に収め、行使している。
財務省が各府省の予算案を取りまとめること自体は特段、問題があるものではないが、査定を通じてこれを事実上決定し、国会に、国会議員に求められるのは実質的には承認のみ。
仮に国会議員が内容を精査し、異議を唱え、修正を求めても、それが反映されることは滅多にない。あらゆる手段と手法、根回しを駆使して原案の防衛に出る。
ましてや、金額の大幅修正を求める異議となれば、その議員もしくは所属政党が、限られた時間内に「修正案」を作り直して、採決を求めるという極めて困難な事態に陥り、国会日程全体が来るってくることになる。
毎年の予算の増減についても同様である。
まさに財政民主主義の否定である、政策の企画立案能力に劣る国会議員には任せられないし、国会議員の意見など、聞くのはいいが反映なんぞさせるものか。
財務省キャリア官僚(国家公務員上級職・行政分野の採用合格者の最上位数名~10名前後と、特別な親族の子弟だけが入省。しかも主計官は、その中での優秀者が選考される)の認識は、いつの時代も、こういうことなのである。・・・
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2023/06/05の「イーグルフライ」掲示板より抜粋しています。
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