日本は半導体敗者を繰り返すのか
米国の対中半導体制裁
米国はこれまで、ロシアや中国、北朝鮮、イランなど多くの「気に入らない国」に、様々な制裁を科してきたが、特に中国は米国を凌駕するかもしれない国として、最近では「最大のライバル国」と位置付け、制裁の度合いをますます強めている。
まず最近のバイデン政権の動き以外の制裁に関して概観すると、以下のようになっている。
- 国務省が「敵対国家制裁法」に基づいて制裁する企業または研究機関
- 国防総省が「中国軍が所有・制御または、関連企業のリスト
(軍事エンドユーザーリスト)」に基づいて制裁する企業または研究機関 - 商務省が「輸出管理規則の実体リスト」に基づいて制裁する企業または研究機関
といった、主として4つのカテゴリーに分けられ、筆者が1つずつ数えたところ、中国の20大学と300以上の企業・研究機関が制裁対象となっている。
最近の動きを見ると、2022年8月には米国主導のもと、韓・日・台をまとめる半導体サプライチェーン協議体「チップ(CHIP)4」結成推進をめぐる議論が、盛んに行われるようになった。
要は台湾の世界最大手ファウンドリーTSMC(台湾積体電路製造)などを中心として、米日韓台が連携し、中国の巨大市場を相手に大きな収入を得ている。
しかし、「チップ4」に加盟すれば中国に輸出することができなくなり(あるいは少なくとも制限され)、特に韓国経済に打撃を与える。
国民生活を豊かにすることを優先するか、それとも米国を中心とした「西側陣営」の一員としての自尊心を重んじるのか、韓国は一時揺れ動いていた。
台湾を取り込もうとすれば韓国の存在感が薄れるし、台湾一極依存の危険性を回避する「台湾からの脱皮」と受け止められれば、韓国に悪いことではないなど、韓国らしい議論が続いた。
そうこうしながらも結局、米国は2022年9月30日に「チップ4」の予備会議を開催した。TSMCなどを抱える半導体大国の台湾が注目されるようになったと台湾は喜んだ。
しかし、この「チップ4」という協議体は何とも心もとなく、米国は別途単独に「CHIPS法(半導体支援法)」を制定している(2022年8月)。
これは世界的な半導体不足の中で米国の半導体製造業界を支援するために、500億ドル(6兆5千億円)の資金を拠出する戦略で、中国において最先端工場の建設を10年間禁止するという付帯条件が付く。
「CHIPS法のもとで資金を受け取る企業は10年間にわたり、最先端あるいは、高度なテクノロジーを擁する施設を中国に建設することはできない」と、米商務長官が記者会見でも明言している。
ところが、米国は22年10月、先端半導体の技術や製造装置、関連の人材について中国との取引を事実上禁じ、日本とオランダに協調するよう求めてきた。
今月中旬にはバイデン大統領自身が両国の首脳と相次ぎ会談し、直接提起した。
先程、「チップ4」(米日韓台連合)を“心もとない”と記したが、実は次の布石が用意されていたということだ。
これで日・韓・台・蘭が米国の監視下で対中での半導体規制包囲網が完成する。
確かに対中国での安全保障体制(半導体分野)は強化されるが、実際のところは、こうした半導体製造や半導体製造装置の先進国を対中規制に巻き込むことで、米国の半導体企業の出遅れを擁護することが本当の狙いなのである。
米国の制裁で沈没した日本の半導体
米国にどれだけの権利があって、他国の柱産業や国家防衛のための国有企業に対してまでも制裁を加えるという権限があるのか。
ここが米国の冠たる「世界最強の軍事力と経済力をベースとしたソフトパワー」(覇権)に基づく証左と言えよう。
日本もかつては米国から何度も煮え湯を飲まされた国の一つだ。
1980年代に米国を追い抜き世界一だった日本の半導体は米国により叩き潰され、その間に韓国が追い上げた。
土日だけサムスンに通って破格的高給で核心技術を売りまくった東芝社員の吐露は、見事に日本政財界の無力さを描いていた。
1980年代半ば、日本の半導体は世界を席巻し全盛期にあった。
技術力だけでなく、売上高においても米国を抜いてトップに躍り出、世界シェアの50%を超えたこともある。
特にDRAMは日本の独壇場であり、廉価でもあった。
それに対して米国は通商法301条に基づく提訴や反ダンピング訴訟などを起こして、70年代末から日本の半導体産業政策を批判し続けてきた。
「日本半導体の米国進出は、米国のハイテク産業あるいは防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がある」というのが、米国の対日批判の論拠の一つであった。
日米安保条約で結ばれた「同盟国」であるはずの日本に対してさえ、「米国にとっての防衛産業の基礎を脅かすという安全保障上の問題がる」として、激しい批判を繰り広げたのである。
こうして1986年9月に結ばれたのが「日米半導体協定」(第一次協定)だ。
「日本政府は日本国内のユーザーに対して外国製(実際上は米国製)半導体の活用を奨励すること」など、米国に有利になる内容が盛り込まれ、日本を徹底して監視した。
1987年4月になると、当時のレーガン大統領は「日本の第三国向け輸出のダンピング」および、「日本市場での米国製半導体のシェアが拡大していない」ことを理由として、日本のパソコンやカラーテレビなどのハイテク製品に高関税(100%)をかけて圧力を強めた。
1991年6月に第一次協定が満期になると、米国は同年8月に第二次「日米半導体協定」を強要して、日本国内で生産する半導体規格を米国の規格に合わせることや、日本市場での米国半導体のシェアを20%まで引き上げることを要求した。
1996年7月に第二次協定が満期になるころに、日本の半導体の勢いが完全に失われたのを確認すると、ようやく日米半導体協定の失効を認めたのである。
しかし、第二次協定の満期によって、日本が米国の圧力から解放されたときには、時代は既に激しく移り変わっていた。
80年代の全盛期、日本の半導体は総合電機としての自社のエレクトロニクスを高性能化させるサイクルの中で発展してきた。
当時は早くも富士通FACOM(ファコム)や日立のHITAC(ハイタック)といった大型計算機は米国IBMに追い付いていて、他のハイテク製品の性能を高めるための半導体の開発は、明らかに米国を凌いでいたと言っても過言ではない。
ところが1993年にインテルがマイクロプロセッサー(Pentium)を、1995年にはマイクロソフトがPC用のOSであるWindows95を発売すると、世の中はワークステーション時代からPC時代に入り、いきなりインターネットの時代へと突入し始めた。
それまでのDRAMは供給過剰となって日本の半導体に打撃を与え(DRAM不況)、二度にわたる日米半導体協定によって圧倒的優位に立った米半導体業界が進めるファブレス(半導体の設計は行うが生産ラインを持たない半導体企業)など、研究開発のみに特化する生産方式についていけなかった。
時代は既に設計と製造が分業される形態を取り始めていたのである。
当時の通産省が率いる包括的な半導体産業に関する国家プロジェクトは、分業という新しい流れについていくことを、かえって阻害した側面がある。
一方、バブルの崩壊なども手伝って、1991年ごろには日本のエレクトロニクス関係の企業は、半導体部門のリストラを迫られていた。
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(この記事は 2023年1月29日に書かれたものです)