物語 ディーラーは死なず

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1919/
第44回「 新年度 」
左斜め前のディーリングボードの席に山下の姿はもうない。沖田がニューヨークから戻るまでは、そこが空席になる。
少し落ち着かない感じだ。‘当分の間、誰かをそこに座らせておくか’
「小野寺、沖田が戻るまでの間、今日からお前はここに座って野口や浅野、そして俺のサポートをしてくれ」
小野寺は昨年、IBT証券外債部から銀行に引き抜いてきた男だが、今は若手のホープとして頑張っている。
「はい、分かりました」というと、直ぐに荷物をまとめて山下の席に移ってきた。
ボードに着くなり、周辺の皆が‘チーフへの昇格、おめでとう’などと言って冷やかした。少し照れた様子を見せながら、‘何だか、一日警察署長みたいですね’と上手く返している。
‘何となく、良いチームに仕上がりつつあるな’
立ち上がると、‘皆聞いてくれ’と声を掛けた。
「今日から新年度だ。また今年度もよろしく。今年は新人の受け入れゼロだ。沖田が戻るまでは一人欠員になるから、彼が戻るまで皆協力して頑張ってくれ。話はそれだけだ」
言い終えると、‘はい’とか‘了解です’という元気な声が部下から聞こえてきた。
週初(2日)の市場は、静かである。ドル円は106円台前半で寄り付いた後も、様子見の展開が続いた。
朝方に発表された日銀短観には、大企業・製造業の今期通年の想定レートは109円66銭と記されている。
‘足下のドル円相場に比して、想定レートは少し甘すぎないだろうか?’
短観上の想定レートは調査対象企業が事業の基準である。それだけに、このままドル円が続落する様なことがあれば、ドル売りが集中することになる。
まだ米政権は通商政策で一定の距離を対日で維持しているが、中間選挙までの7カ月の間、どこかで距離を縮めてくるはずだ。
目先では、米財務省が議会に提出する「為替政策報告書」の中で、日本への言及がどの程度のものになるのかが気懸りである。
報告書は今月15日前後に公表される。
ムニューシン財務長官はかなりトランプ寄りの人物だ。トランプが論功行賞型の人材登用に傾いていることを見抜いている彼は数カ月前、‘ドル安は、米国(の貿易)にとって良い’と臆面もなく言い放った。
そんな彼が「報告書」に対米黒字では世界ナンバー2の日本を厳しく批判してくる蓋然性は高い。
そうなれば、一挙にドル安円高が加速し、輸出企業が慌ててドルを売ってくる。そんなことを考えていると、東城から呼び出しが掛かった。
執務室に入ると、東城はソファーでウォールストリート・ジャーナルをテーブルに広げていた。
「まあ、座れ」とテーブルを挟んで反対側のソファーに手を向ける。
「何か、興味深い記事でも?」
「いや、役員会議が終わったばかりで、一休みがてらに読んでいただけだ。ところで、前年度はよく頑張ってくれたな。お陰で国際金融部門は好成績を残すことができた。
礼を言うよ。そのうち、お前の好きなものでも食べに行くか」
「はい、ありがとうございます。場所は考えておきます」と少し笑みを浮かべなら答えた。
「年度替わりで、忙しいだろうから、もう少し先だな。
年度替わりと言えば、先週、テレビ国際の友人から電話があった。例の経済番組への出演依頼だ。
番組自体は継続するそうだが、コメンテーターの入れ替えを行うので、このタイミングで頼みたいと言ってきた。彼にはお前が落ち着いてからと伝えてあるが、どうする?」
「半年もお待たせしてますから、そろそろ決めないと拙いでしょうね。分かりました。引き受けますと、ご友人に伝えて頂いて結構です」
「分かった。そう伝えておこう。悪いな、お前には一銭も入らないのにな」済まなそうに言う。
「本当にそうですね。その分、本部長の小遣いが減るってことですが」
「そりゃ、そうだ」二人の笑いが部屋に流れた。
心地の良い笑いを最後に、「それでは、失礼致します」と言って、執務室を後にした。
ドル円はその日のニューヨークで105円66銭まで下落した。NYダウが大幅に下落したのに連れたのだ。
翌日(3日)の東京でも、軟調となったNY株式市場の地合いを受け継ぐ格好で、日経平均が大幅安となった。
為替市場もこれに連れてドル売り円買いの動きとなったが、前日の安値を更新するまでには至らなかった。
少しドルがショート気味だな。ここで下がらないと、週末の米雇用統計に向けてショートの踏み上げが起きる。果たして、その日の海外でドル円は106円台後半へと跳ね上がった。
翌日(4日)の夕方、ドルが少し下がったところで、「課長、ここの辺は買いどころでしょうか?」小野寺が聞いてきた。
ドル円は106円10前後で動きが止まったままだ。
「ロングしたいけど、貿易制裁を巡って米中の出方が気になるってことか?
それを頭の隅に残しておくのは良いが、今は市場の心理だけを考えろ。
先週と今週前半、ドルを叩いても落ちなかったんだ。
こんな状況では、少しドルが上がると思った方が良い。来週以降は分からないが、今週はもう6円(106円)割れはないと思う。それで、幾ら抜きたいんだ?」
「1円です」
「そっか、7円25(107円25銭)辺りで利食いを入れておくんだな。もう少し伸びると思うが、雇用統計前だから深追いしない方が良い。確か7円30近辺にチャートポイントがあったはずだ」
「えーと、30が3月13日の戻り高値です」
「そうか、とすれば、それより上は髭になるはずだ。どうせ買うなら今買え、俺も買う。俺は50本、シング(シンガポール)に行く。お前の分はこっちのEBSで買え」
「15で10本」
「こっちは、13で30本、15で20本だ。お前は13の10本を使え。15の10本は、俺が引き取る。利食いはさっきの通りで良い。ストップは入れるな。但し、コールレベルだけは海外に伝えておけ。大丈夫だ。絶対、利食えるから安心しろ」笑みを見せながら言う。
「ありがとうございました」不安な気持が消えたのか、小野寺の顔が先刻よりも和らいだ様に見えた。
‘少しずつ、若手を育てて行かなければ’
ドル円は5日のニューヨーク市場で、107円49銭まで上昇した。
週末の米3月雇用統計は、NFP(非農業部門雇用者数)の増加が予想外に低迷したため、ドルは全通貨に対して緩んだ。
ドル円は結局、前日の高値を抜くことが出来ないまま、106円95銭前後で来週を迎える格好となった。
土曜日の晩、社宅でBGMに Paul Desmond の Feeling Blue を流しながら寛いでいると、スマホが鳴った。国際金融新聞の木村からである。
「珍しいですね、木村さんから電話とは。どうしたんですか?」
「仙崎さんにやっとテレビに出演して貰えるって話を聞いたもんですから。ワールド・ファイナンス、いえ今月からワールド・マーケットに改名になりましたが、局の担当者達は喜んでましたよ。期待されてますよ、仙崎さん」
「私が出たって、視聴率は上がらないですよ。所詮、一為替ディーラーに過ぎないんですから」
「いや、財務省のセミナーも省内で大好評だった様ですし、仙崎人気は上がっているはずです」
「えっ、私がそこで講師を務めたことを知ってるんですか?」
「まあ、仕事柄、財務省やBOJ(日銀)には知り合いが多いので。それはそうと、その番組出演の件で一つお伝えしておくことがあって、電話をさせて頂きました。
実は、番組のニュース・キャスターの中尾佐江には良くない噂が出回っています。男癖が悪いそうなので、気を付けて下さい。仙崎さんは風貌も仕事ぶりも格好良過ぎるから。まぁ、その点で困ったことがあったら言って下さい。こっちにもルートもありますから。ところで、来週の予想はどんな感じでしょうか?」
「妙な話を聞かされたせいで、いい加減な予想になりますが、いいですね?」
笑い声だけで返事がない。仕方なしに続けた。
「今回のNFPは意外な結果でしたが、元々データ収集の方法に問題があるので、修正の多い統計です。とは言え、この結果を見ると、感覚的には誰しもドルを買う気にはなりませんよね。
でも、少し幾つかのチャートに変化が見られるため、目先ではドルは予想外に底堅いかもしれません。
107円台後半では少し需給が緩いと思うので、簡単にはドルが上がらないでしょうが。そう考えれば、来週も揉み合う展開と読むのが正着かと。
予測レンジは105円~108円20銭です。埋め草は任せます。
良い情報、いや悪い情報かな、ありがとうございました。それじゃ、失礼します」
電話を切った後、木村の話が少し気に懸った。テレビ国際の役員だという東城の友人からの依頼だったため出演を引き受けたが、何となく気が重くなってきた。
デスクに置いてあるウィスキーボトルから琥珀色の液体をグラスに注いだ。液体はボウモア12年である。普段ならダークチョコレートを想わせる味がするはずのアイラも、今日はどことなく違う。
途中で止めたミュージック・システムを再びオンにすると、Paulのソフトなアルトサックスが流れ出した。
木村の話でざらついた心がソフト過ぎるぐらいソフトな音色に少しずつ癒されていく。
リンツの70%ダークチョコレートを齧りながら、ボウモアの注がれたグラスを呷り続けると、一切のざらついた気持ちが消え、急に岬のことが恋しくなった。
既にスマホを手にしている。「元気か?」
「えっ、昨日も話したばかりなのに、元気かって変じゃない?」
「そう言えば、そうだな」
「それより了はどうなの。相棒がいなくなってしょぼんとしてるんじゃないの?」
「まあな。それはそれとして、5月の連休に会えないか?」
「それが、ゴールデン・ウィークに集中講義があるので、金沢に行かなければならなくなったの。少し九谷とかも見ておきたいから丁度いいかも」
「えっ、そうなんだ。その頃は会えると思ったのに、それは残念だな」
「ごめんなさい。また、機会を作るから・・・」
「わかった。それじゃ、切るぞ。おやすみ」
「おやすみなさい」
‘何故かこのまま会えなくなる様な気がする。いつも通りの会話だったが、ディーラーの勘だろうか?’
釈然としない気持ちを振り払う様に、再び液体を喉に流し込んだ。
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https://real-int.jp/articles/1939/