物語 ディーラーは死なず1

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
前回の物語は、こちらよりお読みいただけます。
https://real-int.jp/articles/1698/
エピソード1 収益改善
第23回 解け出した謎
岬を松本の市街地でピックアップした後、国道147号経由で碌山美術館に車を向けた。
途中、予想外に車が多いのに気づき、「連休明け(6日)だと言うのに、観光と分かる車やバスが結構多いな」とひとりごちた。
「そうね、この辺りは有名なわさび田もあるので、仕方ないのかしら。観光客で潤う人達もいるけれど、シーズン中は渋滞で住民の人達が大変みたい」
「京都や鎌倉ほどではないにしても、そうだろうな」
そんな話をしていると、ナビが左折を促した。穂高駅前方面への指示である。美術館は近い。昔の記憶が甦り、もうナビは要らないほどの距離まで来ている。
穂高駅前の信号待ちで横に座る岬に目をやった。8年以上も前の真夏、同じ場所で同じ様に岬を見たことが思い出される。
‘あの時、岬はTシャツ姿だった。そしてその胸の膨らみが眩しかった’
少し自分の顔が緩んだのを見てのことか、岬が言う。「何、嬉しそうな顔をしてるの?」
「確かあの時もここで岬の横顔を見たことを思い出していた。そして胸の膨らみにも目が行ったこともね」’初めて二人が結ばれたあの夏の日が懐かしい’
「了も普通の男だったってことね」ふふっと笑いながら言う。
そんな他愛のない会話をしているうちに、信号が青に変わり、ステアリングを右に切った。美術館は数分先のところにある。ざっと100台は駐車可能と思われるパーキング・エリアには、20台ほどの車が停められている。
館内に入り、人影が少ないのを確かめると、「了、手をつないで良い?」と聞いてきた。
昔ならそんなことを聞かなかったが、今は自分の置かれた状況をわきまえているのだ。「ああ、別に構わないけど」と言うと、微笑んで手を差し伸べてきた。
‘本当に嬉しそうだ。夏に会った時より、少し元気になった様な気がする’
「ここは本当に落ち着くわ。でも、了はフライフィッシングやトレッキングのフィールドの方が良いんでしょう?」
「まあ、仕事が仕事だから、自然と向き合ってる方が気分が晴れるのは事実だ。ところで、調子はどうだ?」
「体調はまずまずね。でも抱えてるものが重いので、気分がたまに塞ぐわ。ところで、今日は何処に泊まるの?」
「ブエナビスタだけど。伯父さんの店からは少し歩くけど、あそこがホテルらしいホテルで気に入っている」
「思い出のホテルね。なんだか切ないわ」
「早くそっちの件が片付くと良いけどな。ご主人からは何も?」
「ええ、省内の立場もあるとか言ってる。人一倍プライドの高い人だから、難しいわね。でも、もうこれ以上、自分の人生を無駄にしたくないわ。最近は協議離婚も考えてるの」
「そうか・・・。官僚の世界では、いまだに離婚が出世とかに関係しているのかもな。先日話した大学の後輩の話では、霞が関にはまだ何かと古い慣習が残っているらしい。後輩の話で思い出したけど、岬は俺のことでご主人に何か話したことはないか?」
「あれから考えてみたんだけど、少し思い当たることがあるの。了は向こうでテレビ局の経済番組に出ていたわよね。
結婚当初、主人がその番組を見ていて‘凄いな、彼の英語は。話も理路整然としていて分かりやすい。IBTニューヨークの為替ディラーの様だが、お前の知り合いか?’って聞かれたことがあるの。
仕事上の関係で多少とだけ答えたわ。本当は‘私の付き合っていた人’と自慢したかったけど・・・。その時、少し私の顔が微笑んだのかもしれない。思い当たるのはそれだけね」
「なるほど。人間っていうのはちょっとした仕草や言葉に不自然なことを感じるものだ。もし君のご主人が人一倍そうした感性を持っていれば、その時何かを感じたのかもしれないな」
「確かに神経質で感受性が強い人だと思う」
「そうか、いずれにしても財務省からの講師依頼は断ることにする」と言って、その話は打ち切りにした。
それから岬の手の温もりを感じながら、暫く彫像や壁面の絵画を眺めて歩いた。まるで昔の二人に戻った様である。
館外に出ると、真紅に色づく紅葉が目に飛び込んできた。
「まあ、綺麗! 凄いわ。今日はここに連れてきてくれてありがとう」‘岬の明るい声を聞くのは嬉しい’
松本の街に引き返し、中町にある竹風堂で遅い昼食をとった後、岬は母の営むクラフト店に戻り、そして自分はホテルでのチェックインを済ませることにした。
チェックインを済ませ、部屋に入るなり、持参したノートパソコンをWiFiに接続した。
画面で為替の値動きを追いながら銀行に電話を入れると、山下が出た。「あっ、課長。今何処ですか?」
「松本のホテルだが」
「岬さんとご一緒ですか?」
「お前らしい第一声だな。それなら良いが、そんなハズないだろ」
「それは残念ですね」
「上は73(114円73銭)までか?」
「はい、そうです」
「少しオファーの様だが、上の売り筋は?」
「投機筋は五井商事などの総合商社、機関投資家は大手生保、実需は豊中などの自動車といったところでしょうか。
まともな筋は皆、売ってきましたね。そのお蔭でこっちは高値で買わされてしまい、上手く捌ききれませんでした。申し訳ありません」
「幾らやられた?」
「片手です」
「少し痛い数字だな。今いくらだ?」
「15 aroundです」
「100本売ってくれないか」
「アベレージ15で売れました」
「了解。20本は先週のロングの利食いに当ててくれ。残りの50本は俺の分、30本はお前の分だ。
お前は75(113円75銭)で一旦、利食いを入れておいた方が良い。今日のお前はツキがなさそうだけど、75では利食えると思う。少しはやられの足しにはなるだろう」
「分かりました。課長の利食いは?」
「ストップだけ50(114円50銭)で入れておいてくれ。利食いは放って置けば良い。週後半に必ず落ちる。
次に反発したところが良い売り場になるかもしれない。俺のストップが付かなければ、そこから落ちる。お前はそこでショートを持つと良い。
明日は電話をしないから、後は自分で判断しろ。それじゃ、留守を頼む」
「はい、ダメなときに課長のサポートがあると勇気が湧きますね」
「ニューヨークに行けば、俺はいないんだぞ。お前が部下の面倒を見ることになる。頑張れよ!」
縣倶楽部へは歩いて向かった。ホテルからは15分ほどの処にある。店に着き引き戸を開けると、既に岬がカウンターに腰かけていた。
「いらっしゃい。お久しぶりです」店主である岬の伯父が丁寧に挨拶をしてくれた。
「本当にお久しぶりですね。お元気そうで何よりです」と返した。
「ご活躍の様子、こいつから聞いています。なにせ結婚してからも、自分の亭主より仙崎さんのことばかり話してましたから」姪を茶化す様に言う。
「伯父さん、止してよ。きまり悪いじゃない。それより早く美味しい物を沢山作って。それと信州のお酒もね」照れを隠す様に、岬は伯父に料理と酒を急かせた。
「昔に戻った様だな。あの時もこんな雰囲気でしたね」感じたままを口にした。
そんなやりとりで始まった楽しい宴だったが、時間はあっと言う間に過ぎて行く。9時近くになると、いつの間にかカウンターも奥の小上がりも客で埋まっていた。そんな様子を見て、二人は店を出ることにした。
帰り際、「今日はありがとうございました。またお待ちしています。これからも岬の力になってあげて下さい」と店主が深々と頭を下げる。
それには上手く答え様もなく、「ご馳走様でした。料理はどれも皆、美味しかったです。また寄らせて下さい。それでは、失礼します」と言って店を後にした。
それから二人は中町の北側を流れる田川沿いを歩くことにした。田川の上流部は女鳥羽川と呼ばれるが、松本の人には馴染みの深い川である。
縣倶楽部から少し南に下って田川を渡り、そのまま川に沿って西に歩いた。人気のない夜道のせいもあり、二人は腕を組みながらゆっくりと千歳橋に向かって歩く。自然と左側に岬がいる。昔のままの二人である。
千歳橋の向こうに時計博物館が見える。博物館からは岬の母が営むクラフト店までは程ない距離だ。千歳橋の少し手前まで来たとき、岬が‘強く抱きしめて’と言った。夏の城山公園のときと同じである。左手で体を引き寄せ、強く抱きしめた。
11月の松本は寒い。そんな寒さも互いの温もりで心地良く感じられる。暫くして、どちらからともなく放れた。すると岬が凛とした口調で言った。
「ごめんね、了。仕事まで迷惑かけてしまったわね。でも、もう少し強くなって、主人と向き合ってみる。だから、見守ってて。今日はありがとう。楽しかったわ」
時折り振り向きながら、岬は千歳橋の交差点を小走りに渡って行く。背中がとても小さく見えた。‘切ないな’
ドル円は木曜日に週安値となる3円09(113円09銭)まで沈んだ後、3円50近辺で引けた。7月の高値114円49銭を抜き、114円73銭を付けたものの、ドルの上値は重たい。
週初の50本ショートはそのままにしてある。来週3円を割り込む様出れば、面白いポジションになりそうだ。
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https://real-int.jp/articles/1716/