物語 ディーラーは死なず 序章

為替ディーラー物語『ディーラーは死なず』
日々の外国為替相場にリンクして進行するディーラー物語。相場動向を物語にしているため、相場で何が起きているのか相場を疑似体験でき、相場の本質の理解に役立ちます。
業績回復、行内の派閥争い、そして顧客企業との揉め事など、次々と難題が主人公・仙崎了に降り懸かる。
烈々と動く市場の中で、如何に難題向き合って行くのか。彼の相場予測を交えながら、物語は展開していく。
注:物語が外国為替市場を取り扱う関係上、FRBなどの公的機関やそこに帰属する要人など、実在する機関や人物が登場することがある。
ただ、そうした機関に帰属しながらも、単に主人公と個人的に親交のある人物はその限りでない。また、仮に物語に記された私的企業名や人物名が実在する場合があったとしても、それは単なる偶然に過ぎない。
**前振り**
メジャー・バンク一つである東京国際銀行の為替ディーラー仙崎了は7年半前の11月、大手生命保険会社とのディールで一億円の損失を出してしまった。
それ以来、不調の波に襲われ出した彼はいつしかカバー以外のディールに手を出さなくなっていく。そんな彼を救ったのが部長の東城だった。東城は彼にニューヨーク支店の転勤と、支店在籍のままコロンビア大学MBAへの留学を命じる。
「お前は一流のディーラーになれる資質を持っている。ここで、お前を潰すわけにはいかない。この三年間の功績に対する褒美だと思って、あっちで少し勉強してこい。きっと将来、お前自身と我行の役に立つ」と励ました。
東城の自分への深い気遣いに、仙崎は「はい」と応えるのがやっとだった。コロンビア大学でMBAを取得し終えた仙崎に、ニューヨーク支店トレジャリー部門外国為替課マネージャーのポジションが与えられた。
支店在勤中の彼の業績は目覚ましく、その名は世界中に知れ渡るほどになっていた。そうしたなか、国際金融本部長兼執行役員に上っていた東城から帰国命令が下った。「お前のお蔭で、支店の収益も安定してきたようだな。そこを卒業して、こっちに戻ってこい。外国為替課をお前に任せる」
「了解しました」と返しながら、姿の見えない東城に頭を深々と下げた。
2017年5月のことである。
エピソード1 収益改善
第1回 帰国祝い
国際金融本部外国為替課長として帰任してから二週間が過ぎた六月九日の午後三時過ぎ、東城から電話が入った。
「どうだ、ポンドは?」
いつもなら「市場はどうだ?」が東城からの電話の第一声だが、英総選挙で与党保守党が過半数の議席を確保できなかった後だけに、ポンドの様子が気になったのだろう。
「少し下げ止まった感じで、主要通貨に対してややビッド気味でしょうか。
窓を開けてから売り始めた連中のコストは悪いので、ショートカバーでしょうね」
「そうか。ドル円も少しビッドの様だが、どうだ?」
「ショートカバーでもう少し戻しそうですが、先週から11円(111円)台で上値が重たくなっていましたから、ニューヨークでもその手前の80~90辺りが一杯じゃないでしょうか。週末のにわかロングの落としもあるので、引けは10円の前半だと思います。
13~14日のFOMCでの利上げは相当に織り込まれているので、利上げ決定でも大きなドル買いのインセンティヴにはならないと思いますが、ドットチャートの読み方次第では多少の上下はあるかもしれません。
ただ、最近の物価関連指標の動向が思わしくないのが気に懸ります。そのため、FED内部でもハト派色が強まっている感もあって、年後半であと二回の追加利上げは難しいかもしれません。
それに最近、米金利引き上げはドルの下支えにはなっていますが、押し上げ効果は薄れているのも事実です」
「そうか。いずれにしても足下のドルの上値は重いということだな。
ところで、今晩は大丈夫か?
まだ帰国直後で何かと忙しければ、日を改めても構わない。
ただ、話をしておきたいこともあるので、できれば早い方が良い」
「いえ、問題ありません。どうせ、社宅に戻るだけですから」
「一人ものは気楽ってわけだな。何か食いたいものはあるか?」
「下田でも良いですか?自分のカネではあそこの寿司は食えませんので」
下田は銀座六丁目にある寿司処である。
カウンター六席と小上がり二卓の小さな構えだが、寿司が旨いのと店主の客あしらいの良さが気に入っている。場所が場所だけに決して安くはないが、帰国祝いだから許されるかと決め込んだ。
「分かった。七時に予約を入れておく。それじゃ、直接現地で会うことにしよう」
下田には七時五分前に着いた。
「お帰り、了さん。少し痩せたかい。嫁さんは?」
暖簾をくぐるや否や、店主が少ししゃがれた声を浴びせてきた。
この店に来るのは、昨年の夏に出張してきたとき以来である。
「痩せもしないし、嫁もまだだ」と少し投げやりに返した。
最近では皆、俺に会うたびに結婚を話題にする。
三十八歳にもなって適齢期もないもんだが、自分でも若干の焦りがあるだけに、あまりしたくはない話だ。
「了さんは背も高いし、見てくれも良い。それにエリート銀行マンとあっちゃ、モテ過ぎて仕方がない。だから選択に困るんだろうけど、そろそろ潮時じゃないの」
「その話はもういいよ、大将。それより、喉が渇いた。ビールを頼むよ」
「はいよ」と言って、弟子に一番搾りの中ビンを運ぶように指示した。
手酌でビールをグラスに注ぎかけたとき、東城が現れた。
互いのグラスにビールを注ぎ終えたところで、東城が宴の口火を切った。
「長い間、ご苦労だったな。
席を設けるのが遅くなったが、お前が少し落ち着いてからと思っていた。どうだ、久々の東京は?」
「そうですね。東京は銀行の内外共に窮屈ですね。
東京の街は僕にとっては、何の魅力もないところに変貌してしまいました。
行内は東城さんからお聞きしていた通り、少し人材不足の感があると考えています。
調整して宜しいでしょうか?」
「お前の部署だ。お前のやりやすい様に調整しろ。
東京の街はお前の云う通り、金太郎飴の様なモールや震災も恐れない高層ビルの乱立など、どうしょうもないな」
そんな話の後は、旨い寿司と酒を堪能しながら、ニューヨーク時代の話で盛り上がった。
かつて東城もニューヨークを経験していたため、現地に関する会話もスムーズで楽しかった。
二時間も話が進んだ頃だろうか、
「本当にお二人は仲がよろしいですね」という店主の声で二人の会話は中断した。
その合間に店主が酒の瓶をカウンターに置いた。
酒好きなら垂涎の銘酒、“獺祭 磨き その先へ”だった。
「了さんが戻られたときの祝いにと、手に入れておいた酒です。
‘いかに困難が予想されても、いかに現在が心地良くても、この先へ、我に安住の地なし’
が、この酒を仕込んだときの蔵元の心意気だそうです。
了さんにピッタリの酒です。
了さんが留守の間、東城さんからはあなたのニューヨークでの活躍ぶりを耳にタコができるほど聞かされてきました。
登れるところまで登ってください。
世界経済だの、外国為替だのことは良く分かりませんが、
この寿司職人も応援していることを忘れないでください」
涙腺が緩まずにはいられなかった。
「了。仕事の話は来週オフィスでしよう。今日はおやじと三人でそいつを飲もう」
黙って頷いた。
続く・・・
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